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コリーニ事件 Comments (20)
ドイツ映画。
非常に骨太なクライム・サスペンス。
扱っているのが、一番最後に出てくる1969年に施行された「ドレーアー法」。
この法律により、過去のナチスの犯罪の多くは裁かれなくなった(厳密には、謀殺から故殺扱いになり減刑された。故殺という法概念は現在の日本にはない)。
話の切り札としてこの法律をもってくる辺り、大変上手い演出だと思う。
そして、最後コリーニの取った行動。
こんな結末しかなかったのか。。しかし、満足感を得て死を迎えたのは良かったと言えるのかも。。
ドイツでは、こういうナチスの過去の犯罪をちゃんと現ドイツ人に埋め込むための映画が定期的に作られている気がする。民族浄化はたしかに酷い戦争犯罪だ。しかし、過去にイギリスやアメリカが犯した戦争犯罪は特に裁かれることはない。戦勝国なので。おそらく、敗戦国であるドイツは今後もこういった作品を作っていくのだろう。そして、ナチス時代を過ごした老人世代と、その子供、孫との世代をつないで、記憶が風化しないような装置を作り続けるのだろう。
さて、一方、同じ敗戦国である我々日本は・・。
なんか、比較するのも嫌になるが、現存している戦争体験者の子供、孫世代で、日本が日中戦争、大東亜戦争で何をしたか、過去と向き合っている人がどれだけいるのだろう?
ほぼ皆無と断言できる。
アメリカと戦争したことを知らない大学生もいるくらいだからな。。。
それでは、今からいきなり始められるか。
まず無理だろう。こういう営みは、ちゃんと世代間で引き継がないと成立しない。戦争体験者は戦後何も語らなくなり、その子供世代は思考停止の反戦を掲げることくらいしか行っていない。戦争を真正面から扱ったのはサブカルであるアニメくらいだし。
その結果、世代間が断絶した。
共同体が崩壊して、世代間で会話をしなくなったことも後押しした。今から構築するのは不可能だ。体験・記憶している人がいないのだから。つまり、日本は今後先の大戦を反省する機会を永遠に失ったんだと思う。そして、それは同じアジアの一員である中国や韓国と本当の意味での先の大戦の反省・総括をして、ともに前に進む道を失った、ということだ。
そこがドイツと違うところ。
(まぁ、ネオナチなど変なムーブメントはあるが。。)
この映画でも問われているのは「法治国家」の形だ。
現政権の森友問題や黒川問題、コロナ対応を見るにつけ、日本は「法治国家」の体を成していない。そして、今後はもっと酷くなるだろう。ドイツのメルケル政権と日本の現政権で、コロナ禍の対策を比較してみると違いは一目瞭然。戦後70年でここまで差が付いたんだな・・。
映画を観終わったあと、素晴らしい映画だったな、という感動とともに、日本人の体たらくを考えてかなり落ち込んでしまった。。。
しかし、映画自体は本当に良い。
コリーニ役の俳優フランコ・ネロ氏の演技も素晴らしい。めっちゃ渋くて良い役者。
サスペンス系が好きな人なら一見の価値があります。
シーラッハの作品は、実際に自分が扱った事件をベースとした作品を執筆していたが、今作はフィクション作品ではあるが、シーラッハの祖父の存在が影響した作品ともいえるだろう。
フィクションではあるが、実際に存在するドレーアー法の落とし穴や矛盾点、ドイツが抱える戦争による負の遺産などデリケートな部分にメスを入れた作品となっており、国家を揺るがした小説ともいわれているほどだ。
3カ月前に弁護士になったばかりの主人公ライネンが、初めて担当した事件がよりによって、自分の恩人で親代わりでもあったハンス・マイヤーを銃殺したファブリツィオ・コリーニの弁護。ハンスの孫であるヨハナ・マイヤーは昔の彼女、敵は恩師でベテラン弁護士リヒャルト・マッティンガーという単純にドラマとして見ごたえのある設定が目を惹く作品ではある。
原作では、主人公がそれなりの生活レベルが高い設定とされていたが、映画では、庶民的に変更されている。この変更によって、キャラクターに親近感はわくようにはなったのが、失ってしまった部分もある。それは、権力に対抗することでエリートであるライネンがどん底に落ちかねないという、ライネン自身の弁護士生命に対しての危機感が中和されてしまったのだ。
フェルディナント・フォン・シーラッハの作風として、入り口がおもしろく、読者の心をつかむ作品は多いのだが、扱っているテーマが社会において答えが出しづらい、判断を決める側の価値観が大きく影響するものが多いため、結末があやふやな場合がある。
例えば2016年に出版された『テロ』という小説がある。ドイツ上空で旅客機がテロリストによってハイジャックされた。犯人はサッカースタジアムに墜落させることで7万人の観客を殺害しようとしていたのだが、それを緊急発進した空軍少佐が独断で旅客機を撃墜し阻止した。スタジアムの観客7万人は救えたが乗客164人は殺害してしまったことを法廷で裁くという問題作だ。
しかし、この作品には2通りの結末が用意されている。斬新かと思うかもしれないが、これは好き嫌いが別れる部分だと思う。
答えの出ない、読者の概念や価値観で解釈が大きく左右されるような題材のため、最終的に投げかけて逃げてしまうパターンが多いのだ。
今作はその象徴的ともいえる作品と言っていいかもしれない。そのため、今作も悪い意味でもシーラッハ作風が出てしまっていて、結末は納得できない人も多いのではないたろうか。
戦争が終わった今でも、家族や恋人、大切な人を殺された人にとっては、何時までも戦争は終わらない。敵も味方も関係なく、戦争という渦に巻き込まれた人は十字架を背負って生きていくしかないという国が作ってしまった不の遺産を司法としてどう扱うべきかという部分にメスを入れている。
今作に関しては、被害者が殺されてしまっているだけに、コリーニ側の一方的見解が果たして正しいかが不明な部分があるし、コリーニは頑なに口を開こうとはしていなかった点で言うと、これはコリーニ自身が殺人はいけないことだと分かっていて、ハンスにも家族がいるとも知っていて、それでしてしまった自分は裁かれるべきだと思っていたからだと思うのだが、それなら殺害した時点で自決したらよかったと思う。(あくまで結末の展開を考慮すると)
法律の落とし穴を世間に暴露したい、メディアに流してもらいたいという意図であれば、最初からライネンに協力して事実を話したほうがよかっただけに、コリーニの心境が物語に都合よく左右されているような部分が少し引っかかる
本当に殺害してしまったことで動揺していて、どうしていいのかわからなくなってしまったと言われれば…そうかもしれないが…どうしても設定の背景基盤が薄いようにも感じられてしまう。
また、劇中でも少しだけ語られるのだが、戦争というものが残した不の遺産と、戦争という極限の状況下において、逆らえば殺される状況で下した決断に対して、個人を裁くこと自体も正しいのかという問題もある。
2015年の映画『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』は、ユダヤ系アメリカ人のスタンレー・ミルグラム博士が「人はなぜ権威へ服従をしてしまうのかある状況下において、人はどこまで非情に残酷になれてしまうのか」という実験をして物議を呼んだ事実を描いたものであった。
シーラッハの祖父は、実はナチ党全国青少年最高指導者バルドゥール・フォン・シーラッハ ということで、ハンスのモデルはシーラッハの祖父そのものの様にも感じられる。戦争が壊した、ハンスの人間性の本質という部分でも、大切に描いてもよかったのではないだろうか。
ドレーアー法、司法の落とし穴の部分にメスを入れた上で、下される決断を映画ならではの解釈で描いてほしかった。
■今作品に重みがあるのは、
1.新任弁護士カスパーが弁護を担当することになったコリーニ(フランコ・ネロ:渋すぎるし、凄すぎる・・。哀しみを湛えたあの眼がセリフなしでコリーニの哀しみを表現している。)に殺された”被害者”ハンス・マイヤーが且つて、自分を育ててくれた”祖父のような”存在の大企業の社長であり、彼の幼年時の想い出が効果的に劇中に挟み込まれていることで、現在の且つて恋人だったヨハンナ・マイヤーを含めた登場人物に厚みが出る事であろう。
2.そして、その心優しきハンス・マイヤーが第二次世界大戦中に行った所業をカスパーや且つて自らの元を去った父、ピザ屋の店員の”知性ある女性”達の協力の末、明らかにしていく過程。
二転三転する法廷劇・・。
■白眉のシーン
・1968年にドイツで制定された「ドレーアー法」(一部では機能したが、相対的に見れば稀代の悪法。ナチに関わった多くの知識層を救った事で有名。)の制定過程を、コリーニ事件の検察側に立つ、この悪法制定に携わったカスパーの且つての恩師リヒャルト・マッテンガー教授に詰問する場面であろう。
ー若き、法曹界で働くカスパーの苦悩と、自らのリーガルマインドとの葛藤・・。-
<学生時代に叩き込まれた ”公平性を保て” ”疑わしきは被告の利益に・・” ”三権分立を死守せよ!” ”公権力に屈するな” という数々のを教えを思い出しつつ・・
日本においても、近年、与党の強行採決により、幾つもの悪法が可決されているが、我が国の未来は大丈夫なんだろうな? 現宰相殿・・。>
決してハンスマイヤーやマッティンガーの過去の行為を肯定をするわけではないですが、若い頃のハンスマイヤーがあの時代の全体主義の流れに逆らえたかというと確実にそうとは言えなかったでしょうし、若いマッティンガーもその流れに巻き込まれた中でドレーアー法への賛成という立場であったのではないかと感じています。
やはり、戦争は傷つくものや壊れるものに代替不可能なものが多く、往々にして社会的に弱い立場の者からその被害を受けるため、結局のところ最終的に出来ることは、社会としての機能や流れが「こういう場合はこうなる恐れがある」という共通認識を作り、それが再度起こらないようにする事なのだろうと改めて強く思いました。
また、これらに加えて、犯した過ちに対する責任はどこまで精算しなければならないのかといったテーマも含まれていたので、そのような点も作品としては非常に興味深い点であったのではないかと思います。
そして、これら比較的重いテーマを扱う中で、登場人物が、トルコ系移民の新米弁護士の主人公、その主人公が生活をする上で幼い頃にお世話になっていた人、そのお世話になっていた人の娘で元恋人、法律を学んでいた際にお世話になった人…といったように複雑な関係となっていた点に、作者なりのメッセージが詰まっているのではないかなんて事を楽しく想像させて頂きました。
テーマの設定自体が重かったり、決して皆がハッピーエンドな映画なんて事は言えませんが、改めて戦争の一面を考える映画としては良い作品なのではないかと思います。
主人公カスパーがすてき。ヨハナとのいちゃいちゃがなんだかほほえましい。若い頃も、現在も(不倫やろけど)。
ミステリーとしてはひねりがあまりなく、ミステリーに疲れやすいわたしには向いてる。
ドイツの戦争責任への向き合いかたは、真摯だと改めて思う。もちろん全員残らずではないだろうけど、関心を持ち続ける姿勢がある。
コリーニがしたことを責める気にならない。
また、ハンスのように、まがいものの権力を振りかざして人を殺すことは、誰にでもありうると思った。彼の立場にいて、暴力への欲望を振り払うことは難しいだろうとも思った。人はまことに愚かだから。