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桜桃の味 Comments (11)
そして、3人の男を次々に車に乗せ、”ある願い事”をする。ー
<Caution ! 以下、内容に触れています。>
1.クルド人少年兵に男が言った言葉
”20万トマン渡すから、朝、穴の中の私に”バディさん、バディさん。朝が来た・・”と、呼びかけて欲しい。応えなかったら、シャベルで土を掛けて欲しい・・。”
”銃とシャベルと何が違うんだ。”
男の奇妙な問いかけに戸惑い、逃げ出す少年兵。
ー 会話の中で、クルド人問題にも、やんわりと触れている・・。ー
2.アフガン戦争から逃れてきた、アフガン人の神学生の青年との会話
自殺について語るバディ。だが、その理由には言及しない。
答える神学生。”コーランには、自殺は誤りだ、と書かれています。”
ー 現在、アフガニスタンを再び支配したタリバンは、多くのアフガニスタンの民に何を強いてきたか。自爆テロは、”ジハード”と言う名を借りた自殺教唆ではないのか!
そして、バディが自殺の理由を口にしないのは、故アッバス・キアロスタミ監督がどのような理由であろうとも、自殺全般を否定しているからではないか?ー
3.トルコ人の老人、バゲリとの会話
老人は、且つて、自分も、自殺を考えていたと話し出す。
”縄を掛けようとした木に成っていた熟れた桑の実の美味さ。美しい夜明けの太陽、夕暮れを又見たくはないか。泉の水を飲みたくはないか・・。桜桃の味を忘れてしまうのか!”
ー 老人が自らの経験を基に語る、自然や人生の美しさを表現した、言葉のセンスの素晴らしさに唸る。そして、直接的に、自殺を止めるのではなく、間接的に自殺を止めようとする姿にも。ー
4.老人の話を聞いて、腕を組んで沈みゆく夕陽を見つめるバディの姿。
<ラスト、バディは”何故か”タクシーに乗って、九十九折の山道を登って行く・・・。
そして、画のトーンが変わり、故アッバス・キアロスタミ監督がスタッフたちに、撮影の指示をするシーンや、バディを演じた役者が映るシーンに切り替わる・・。
何とも、見事な作品である。>
序盤から基本は車での会話。それが至近距離の圧迫感のある画の連続なので、結構疲れる。そして、荒涼とした大地や砂埃ばかり。おもしろくもなんともない。主人公の表情もそれらと同じく。
しかし、終盤のじいさんのあたりから変化が出始める。走っている車を遠くから撮りつつ、じいさんの話が乗っかるのだが、これが見ている側へ話しているような感覚になる。そして、映像もそれまで映さなかった空や鳥、グランドを走る人、木、夕暮れ、と開放的なものを映していく。説明もなにもないが、それが主人公の視線、心境の移ろいを表現している。
ずいぶん前に読んだのでうろ覚えだが、漱石を思い出した。死のうかと相談に来た男。話を聞き終え沈黙のあと、夜空の月を示して漱石が「あの月を見て美しいと思うか」とたずねる。男は月を見上げ「はい」と答える。漱石は言う「それでは生きていなさい」。
どういうことか、は言っていなかった。この映画もそう。でも、桜桃の味はどんなに絶望していようが美味しいと思えるだろう。じゃあ生きていたら、ていう。
でも最後はどういうこと?
街中を離れイランの荒れ地をレンジローバーが只管走り回る、殺漠とした風景ばかりだ。
何やら助っ人を探しているらしいが30分たっても何のための人探しか分からない、二、三人に声を掛けるが胡散臭いと思われて儲け話にも乗ってこない。車に誘ったクルド人の若い兵士に頼み込む、20万(貨幣単位不明)やるから自殺を助けろという突拍子もない話、荒れ地の木の下の穴に睡眠薬を飲んで眠るから翌朝来てみて死んでいたら土をかけて欲しいと言う。若い兵士はドン引きで逃げてしまう。次はアフガン人の神学生、当然拒否。何故死にたいのか、何故そんな荒れ地で土に還りたいのか、動機の説明は無い。「話したところで同情はしても私の心の痛みは共有できない」と突っぱねる。
最後に話にのったトルコ人の老人は自分も自殺しかけたがロープを掛けた木の実を偶然口にして考えを変えたと言う、サクランボかと思ったら桑の実という、後半のセリフでは果物は神の恵み、桜桃の味を忘れたかと言うが桑の実を桜桃に置き換える必然性、ましてタイトルにする意味は何故だろう、桑の実では一般的に味が伝わらないとの配慮なのか、だとすると作風と合わない気もする。引受人の設定が博物館の剥製職人、ウズラの標本を作っているらしい、なるほど、死体処理には打って付けだ、病気の子供の治療費とか主人公と打って変わって動機説明は妙に饒舌。
男は念願(?)かなって穴に入って眠るところまでで画面は暗転、突然メイキング映像に変わる・・。結末まで観客に委ねるとは、ほぼ丸投げ状態。
冒頭の職にあぶれた街中の若者なら二つ返事で請け負ったろうになぜ埋葬人に拘るのか、実は妙な設定を借りて、登場人物に正論を語らせることで狂信的ととられているイスラム教徒の汚名を雪ぎたかったのかもしれないと邪推したくなる。
内容を知っていたら敬遠していたのだが「初恋が来た道」のチャン・イーモウ監督が影響を受けたイラン映画と言っていたので鑑賞、確かに哲学的テーマ風、撮り方も独特、音楽も無いミニマリズム、玄人受けするのは分かるが本音としては作家性が強すぎてどうにも意味不明、観るに堪えなかった。
アヤトラ ホメイニの死後の作品だが、イスラム宗教色は強く引き継がれ、勝手に解釈して申し訳ないが、監督としてはイランで生きていく上において、自殺や自殺の幇助は宗教上ご法度だし、検閲も厳しいから、この最後のシーンに工夫を凝らさなければならないと考えて、『笑い』に変えたと思う。あとで、この映画のインタビューがあったら、聞いてみて補足する。これはあくまでも主観。
アッバス・キアロスタミ監督って、先へ先へと意味のある追及力が持続する。博物館で剥製の仕事に携わっている、Bagheri バックグヘリという高齢者の言葉で例えると、『映画(人生)は汽車のようだ、最後の字幕まで(終着駅)まで走り続ける。終着駅は死だ。途中で話が止まらず、次から次へと続く。(追求する)これだけ、私の好奇心やモーチベーションを下げない監督は数少ない。今となっては、彼の功績を振り返って、作品に思いをはせるしかないが、私の心の深淵に響くかれの才能に感謝している。
それに、不思議なことには登場人物で、主人公Badii を除いてはイラン人じゃなく、クルド人、アフガニスタン人、トルコ人(アザバジャン)。この三人の選択にしても、イランに住んでいる移民、難民、少数民族を取り入れて、テヘランの北ダラバッドDarabadから歩いてきたというグルド兵士、ある青年はアフガニスタンのマザリシャリフからで、戦争で学べないためイラン(イラク?)にイマンになる勉強に来た学生、最後は自殺しようと試みた老人と、アッバス・キアロスタミ監督は多様性のある取り組みをしている。
後半で、ブルトーザーが砂や石を落としているが、影となって主人公Badiiに石や砂が降ってくる状態を写しているのがかっこいい。主人公は地に埋まっていく自分を想像して圧迫恐怖感をもっているところで、 バックグヘリに会う。 バックグヘリはその後、時間はかかるが美しい景色が見えるところを通って、自然歴史博物館まで乗せてもらう。
道中の会話は圧巻で、私はこの バックグヘリの話に集中した。首吊り自殺をしようと思って、何度もロープを木にかけたが、できず、最終的に木に登りロープをかけようとしたところ、柔らかいものに触った。それが、桑のみ(?)一口食べたら美味しくて、次から次へと、、、食べてるうちに、朝日が上り、この美しい光景に心が打たたれる。学校にいく子供たちがそこを通り、木の枝を揺すってくれと。子供たちも学校に行く前、熟れた桑の実をたくさん食べる。ー彼が死んでいたなら、子供たちはこの実を食べられなかった。死のうとしている人が子供を幸せにしている。
そして、家族にも持って行こうと桑の実を拾い集めたという話。そしたら、Badiiは『家族が木の実を食べて幸せだったでしょ』と。深くないなと私は思った。そうすると、バックグヘリは
『たかが普通の桑の実、全然大事じゃない桑の実、この桑の実が私を変えた』と。そして、ものの見方で人生は変わると。結局、神の創造した、自然の恵に救われたという自殺をしようとした個人の経験談は力強い。
その後、カメラアングルはバックグヘリの話した経験をだどるようにBadiiの目に自然や子供などを追わせる。一見、生きる希望が湧いてきたようにみえる。生に未練を持つようになる。
でも、彼は、夜、死のうとしている洞穴に戻っていく。
問題を抱えている人に会って話しかけられると、兵士のように人の話を聞くのが怖かったりしたり、関わりたくなかったりで、逃げていくものもいる。また、それとは逆に説得をする人もいる。イマン志望の学生は、Badiiを友達の小屋に呼び寄せ一緒に食事をして多分コーランの話をしようとする。しかし、自分の経験談を話すだけことがいかにパワーがあるか改めて知らされる。これがアッバス・キアロスタミ監督の言いたいことだと思う。