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東京物語 Comments (20)
「紀子三部作」第3作。
「ニューデジタルリマスター」Blu-rayで4回目の鑑賞。
家族―人間ならば誰しもが抱え、関わり続けなければならない普遍的なテーマを扱った不朽の名作。世界中の映画監督が選ぶ映画ランキングの第1位に輝いています。本作で描かれているテーマがどんな時代であっても変わらないものであるが故に、世界中の人々が揃って共感することができるということの証明ですねぇ…。
笠智衆と東山千栄子が演じる老夫婦の穏やかな仕種に垣間見える静かな悲しみに心打たれました。多くを語らないだけに余計に悲痛でした…。
久し振りに会った我が子らは、初めの内は両親との再会を喜びますが、日常に追われる中で次第に厄介者扱いして持て余し、最後には熱海への旅行にかこつけて、東京から追い出してしまいました…。
若者向けの騒がしい旅館で眠れない一夜を過ごす老夫婦は、どのような想いで床に就いていたのか…。考えるだけで胸が痛くなって来ました。
初鑑賞のときはとても薄情な光景に思えましたが、何回も観ていくと子供たちにもそれぞれの生活事情があって、そうしてしまう気持ちも分からなくはないなという感想を抱くようになりました。ですが反対に、もうちょっとどうにかならなかったのかなとも思いました。
戦死した次男の妻である紀子(原節子)が、言わばすでに他人であるにも関わらず、甲斐甲斐しく夫婦の世話をする優しさは、何とも現代にも充分通じる問題であるように感じました。
反対に杉村春子演じる長女は、母親の葬式の精進落しの席で形見に着物をねだりました。尾道に駆け付ける前、いち早く喪服を用意しようとしたのも彼女でした。
そんな姉の行動を嫌悪する次女(香川京子)が、子供たちの中で一番心の清い人物のように思えました。次女はずっと尾道で両親と暮らしながら、そこの小学校で教師として働いています。つまり、東京で暮らしている兄弟たちのように“都会生活の苦労”をしていない…。まだまだ世間を知らないと言えるのではないかなぁ、と…。これこそ薄情かもしれませんが…。
東京と尾道とで、流れる時間の速さが全く違うことも、それを巧みに捉えるカメラワークから強く感じました。
流れる時間が人を変えてしまうのでしょうか? 都会の喧騒と慌ただしさの中にいると、大切な何かをポロッと落っことしてしまうのかもしれないな、と…。
だからと言って、スローな生き方が良いのかと言うとそうでもない気もしました。
うむむ、難しい…。
いろいろな立場で観ることで、自分の家族についてめちゃくちゃ考えさせられた作品でした。
家族って果たしてそんなもんなんだろうか…。親のことは心から大切にしようと、観終わって痛切に感じました。
考えれば考えるほど心に沁みて来るなぁ…。味わい深い名画だなと思いました。
※追記(2019/10/25):「ニューデジタルリマスター」Blu-rayで鑑賞。
私なんぞがグダグダ言う必要のない、問答無用の世界的傑作。グダグダ言いますけど。
小津の代表作でもあるわけですが、その理由として、本作には小津が描こうとしてきたであろう頻出する2つのテーマが過不足なく、きちっと描かれているからだと思います。
【小津の頻出テーマ】
①喪失と向かい合うこと
誰かを失うということは、本当に苦しく悲しく辛いです。離別もそうですが、死別はなおさらのこと。だから、我々は悲しみから目を逸らそうとします。
しかし、小津は悲しみから逃げても何も変わらないことを静かに、しかしきっちりと描こうとする人だと感じています。そして、喪失が描かれる作品では、必ず小津はポジティブな印象を与える人物に悲しみと直面させます。
小津が喪失の物語を繰り返す理由は、おそらく戦争体験でしょう。不条理に悲惨な現実に巻き込まれ、大切な人々との関係を断絶させられる。小津自身も大切な人を亡くしているのかもしれません。喪失との直面を描くことは、小津にとっての癒しの作業、つまりサイコマジック(byホドロフスキー師匠)の実践だったのかもしれません。
本作では、未亡人・紀子が相当します。彼女は先の戦争で夫を失っており、8年もの間ひとりで暮らしています。
終幕近くにて、紀子は「私は狡い」と独白します。亡き夫を愛しているが、彼を思い出さない日が増えてきている、と。愛しているが忘れていく罪悪感、そして将来の自分の生活の心配や展望を描きたい気持ちがないまぜになり、彼女を苦しめます。
小津は、このように苦しみ悩むことこそが、拭いきれない悲しみを真の意味で癒し、そのプロセスが人間を人間たらしめている、と強く主張しているように思います。身を引き裂かれるような痛みを超えることが、その人を成長させると考えているのではないでしょうか。
また、悲しみを語り痛みに向かい合うためには、誰かが必要です。しかし誰でもよいわけではなく、心のつながりのある人でなければならない。本作では老夫婦に当たるでしょう。東京にやってきた老夫婦に対して、紀子だけが心の交流を行ってました。だから、紀子は彼らに語れ、彼らも紀子を受け止めたのです。
このような心のつながりがあるからこそ、人は人として営めるのだ、と小津は語っているように感じます。だからこそ、彼はつながりの象徴である家族を描いてきたのだと思います。
②合理主義・プラグマティズムへの怒り
本作では二項対立が描かれています。それは、人間的なつながりを持ち、悲しみと向かい合える紀子や京子、老夫婦のポジティブサイドと、日々の忙しさに追われ、悲しみと向かい合うことのできない兄や姉のネガティブサイドです。
ネガティブサイドの人たちに対しては、紀子に「仕方ないのよ、私たちもああなるのよ」と言わせてますが、小津は仕方ないなんて微塵も思っちゃいない。明確に「フザけんじゃねぇ!」と怒っています。
小津は合理主義を、自身が考える人間的な営みを破壊するものと捉えている様子が窺えます。人から時間を奪い、その結果余裕を奪い、人間にとって最も大切な人とのつながりと情緒的な生活を奪う。すなわち、合理主義に人間性を奪われた人は、喪失の痛みにのたうち、悩み苦しむこともできなくなるのです。
兄と姉は喪失ができない。一瞬悲しむも、悲しみを抱えることはない。確かに忙しいし、常識的には致し方ないことです。しかし、小津はこの価値観にはっきりとNoと言っているのです。
だから、小津は終生サラリーマンをdisったのだと思います。
しかし、本作はネガティヴサイドの人々をdisったりしません。兄や姉は、悪でも虚無でもありません。そのあたたかさが本作を大傑作にたらしめているのでは、と感じています。
作中にて、兄と姉は昔は優しかったと語られます。つまり、彼らは合理主義によって人間性を奪われた存在、として描かれています。システムを憎んで人を憎まず。
美しいタイトルですが、表題の東京とは、もしかすると合理主義を象徴させているのかもしれないな、と思いました。小津の抵抗・反抗のアティテュードを感じざるを得ません。
本作は家族のつながりの崩壊を描いていると思います。合理主義に侵食され、その結果核家族化が進み、つながりが失われる世界を予言していたようにも感じます。小津映画は古き良き日本を描いているというイメージが流布していると思いますが、それって合理主義以前の豊かな情緒的つながりのことなのかなぁ、なんて想像してます。
しかし、小津が嫌うような人間性を奪うイズムはいつの時代にもあるし、戦中なんて命を奪う軍国主義があった訳ですし。小津は懐古主義というより、理想郷とか人のあるべき姿を描きたかったのかもしれません。
したがって、本作は単に昔を懐かしむような作品では決してなく、現代にも通用する普遍的な物語だと感じました。だから世界的に評価されているのかもしれません。