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モロッコ、彼女たちの朝 Comments (20)
ー 今作は、日本で劇場公開される初のモロッコ映画だそうである。
男性優位のイスラム教国で生きる女性達の姿と、豊かな生活文化が描かれており、メディアからは伝えられないモロッコ女性の優しさ、逞しさ、抱える悲しみに耐える姿が印象的な作品だ。ー
□北アフリカ、モロッコの最大都市カサブランカが舞台。
旧市街を彷徨う、訳アリ妊婦のサミアを寡婦のアブラが渋々、自宅に招き入れる。
モロッコでは、未婚の母は認められておらず、匿った人間も罰せられる虞が有るにも関わらず・・。
アブラは小さなパン屋を女手一つで営み、幼き娘ワルダと暮らしていたが、サミアが”お礼に・・”と作ったパン、ルジザ(モロッコの伝統的なパンケーキ)が思わぬ評判を取る。
サミアはアブラ親娘と交流を深め、到頭、出産の日が訪れる・・。
◆感想
・サミアの働かせて欲しいという懇願をアブラは素っ気なく断るが、身重のサミアが店の前で眠る姿を観て、一晩だけ、と家に招くシーン。
- 実は、心優しい女性ナンだね。-
・アブラの表情には終始、笑顔がない。上記の社会構造が原因かと、思っていたが・・。
- サミアに対し、
"夫が事故で亡くなった際に、触れる事も匂いを嗅ぐ事も出来なかった。"
と、涙を流すアブラの姿。モロッコの冠婚葬祭の決まりなのかなあ・・。-
・サミアと明るいワルダは直ぐに打ち解け、サミアが作るルジザが人気で店は繁盛する。アブラも久しぶりにアイラインを引き、服装も華やかになる。
- 悲しき出来事を忘れた訳ではないが、少しずつでも、前を向いて行かないとね。-
・そんな中、サミアは出産。だが、名前も付けず、涙を流すサミア。
"自分と一緒だと、この子は幸せになれない。養子に出す。"
- モロッコの社会規範が伺える。産まれて来た子には、罪はないのに。-
・だが、幼子の可愛らしい顔を見て、サミアの心は徐々に変化して行く。
乳を飲ませ、小さな手、足の指を愛おしそうに触る姿。
ー 母が苦労して産んだ幼子に乳を与える姿は、とても美しいものである、と私は思っている。ー
<モロッコに於ける女性の地位は、国際社会の中では低いのであろう。
だが、何時の日にか、サミアとアダムと名付けられた幼子とアブラとワルダが笑顔で再会して、皆で美味しいパンを朝食で食べる姿を見たいなあ、と思った作品。
淡い光や、陰影により、サミアとアブラの心情を表現したかのような映像も印象的な作品である。>
モロッコに住む人々のほとんどは、イスラム教徒。イスラム教徒では婚前交渉が禁止されており、未婚の妊婦という時点で、誰も関わりたがらない。
普通に考えても未婚の妊婦サミアが、ひとりさまよっているとなれば、ただでさえワケあり感が漂うものの、宗教上の問題が関わっていれば、なおさらだ。
モロッコの場合は、法律、つまり国のベース自体にイスラム教があるだけに、感情だけでは、なかなか揺れ動かない。
ジェンダー・ギャップ指数も143位(2020年)と、女性がひとりで子供を抱えて生きていく環境としては、決して良いとは言えない。
そんなモロッコという国を背景に、ひとりのシングルマザー、アブラと出会い、物語が展開されていく。
アブラは、夫を早くに亡くして、パン屋を経営しながら、女手ひとつで娘ワルダを育ててきた。境遇は違うが、少なからず女性がひとりで生きていく厳しさを常に感じているものの、宗教上や自分自身に抵抗がある。そこに風穴を開けるのがワルダ(ちょっと藤田ニコルに似てる)。
ワルダは無邪気で、モロッコという国にある概念をまだ知らない。だからこそ純粋そのものな存在であるのだ。
モロッコという国も時代を経て、少しは開放的になりつつあって、サミアはそんな世代で、何より若いということもあって、差別されながら貧困の中だったとしても、何としてでも子供を育てるという母性意識よりも、わからないように産んで、普通の生活に戻って、同年代の女性と同じようにオシャレして、何ごともなかったように結婚したいと思っている。
合法的に中絶もできない。両親に打ち明けてしまうと、両親まで差別を受けかねない。そんな国の風潮や圧力によって、サミアは両親にも言えないまま、お腹が目立ってきたから家を出てきたという状況であり、サミアにとってお腹の子は、厄介な物でしかなかったのだ。
サミアもアブラも、心に壁があって、逆にそこが心地よい部分もあったりするのかもしれないが、一方で相手に世話を焼いてしまう一面もあったりする。そこにワルダの無邪気さが加わることで、ある種の擬似家族の形態へと変わっていく。
そのグラデーションの部分を、映画的にドラマチックに描くというよりも、ごく自然体で淡々と描かれる。変に慣れ合わない独特の環境だからこその心地よさという面では、真逆の結末に向かっていくが『17歳の瞳に映る世界』に近いものも感じた。
人間というのは、幼い頃は、どの国もそんなに変わらないと思う。生活環境だったり、親の価値観の押し付け、社会に染まった大人の汚さを知っていくことで、知らないうちに、自分も気づけばそんな大人になってしまっている。
それを常に思いおこさせるのは、子供という存在であって、人間は子供を見ていると常に自分のあり方を思い直させる。動物的な繁殖機能によるものという一方で、心の部分でも子供という存在は人間には、必要な存在なのだ。だからこそ全く違ったジャンル『海辺の家族たち』『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』などを観てもわかるように、子供が希望の象徴のように描かれることが多いのだ。
監督であるマリヤム・トゥザニが、家族で助けた未婚の妊婦との体験談が今作のベースとなっているのだが、監督もまたモロッコ出身である。この映画と変わらない環境にありながら、未婚の妊婦を助けたことは、監督の家族は概念に捕らわれず、人間の繋がりを大切にしていたということが感じられる。
そういった環境で育った監督が、映画を通してモロッコの人々だけではなく、例えばヒンドゥー教の多いインドだったり、保守的なキリスト教信者の多いアメリカの地域だったりといった、宗教色が人々の概念に影響を強くもたらしている国に対しても、何かしらの刺激になって、考えるきっかけをあたえてくれる。
私たちは、どうしても国という大きなくくりで、人間性を判断してしまいがちだが、人間性のベースにあるものは、どこの国も変わらないのだということを改めて考えさせられる機会を与えてくれたような作品だ。
モロッコは、1日3食パンを食べるほどのパン食文化の国である。日本のようにふっくらとしたパンもあるが、平べったいチヂミのようなパンが主流だったり、麺のようなルジザといわれるパンもあったりと、モロッコの食文化を知ることができる。
入口は食文化でも景色の美しさ、または女性の地位でも何でも、様々な観点から、モロッコという国に目を向けるきっかけに、今作がなるのだとしたら、監督も本望ではないだろうか。
この作品、イスラム教の教義とか、人権、特に女性の人権(一部のイスラム原理主義者の人にとっては、欧米文化からの余計なお世話であり、横やりを入れてくれるな、ということかもしれない)との絡みとか、についてそれなりに勉強してないと受け止め方が難しい(少なくとも私には整理しきれませんでした)。
ただひとつ。
あの授乳シーンは、男には絶対実感できない〝至福〟がありました。
それまでの経緯やこれからの困難などすべてを考え合わせると、不幸の裏返しの至福かもしれませんが、それでも。
あのシーンに漂う神々しさはバチカンのサン・ピエトロ大聖堂のピエタ(言わずもがなのミケランジェロ)のようでもあり、母性には服従するしかないことをあらためて実感(これは男にしか実感できない❗️)しました。
彼女の為なんておこがましい思いでいるのも違う、じゃあなんで手を差し伸べるのか?
そんな微妙な距離感をもどかしく感じながら、わずかな時間に起きる不思議な関係性に嬉しくなったり悲しくなったりした。
どんな現実をも受け入れる強さを目の当たりにし、そんな強くなくて良いのにと微妙な気持ちになる私は平和すぎるのだろうか。
その力に吸い込まれるように魅入ってしまいました。
笑顔がなかった二人が、
徐々に心を開き、心の隙間を、お互い少しだけ補い合い、
だんだんと笑顔を見せるようになっていく様子に、
こちらも、ホッとしました。
娘の笑顔が終始キュートで可愛かった。
いい子ですー。
そして、女の権利が想像以上に確立されていない異国の地の女性たちに
負けるなー!とエールを贈りたくなりました。
また、私自身も強く生きる二人にパワーを貰えました。
さらに、モロッコの風習、食べ物、服装、とても新鮮で、興味深く楽しめました。